神保町の路地に入ると、午後の光がガラス戸の文庫の背に届く。冬のこの時間、観光客の波は引き、店先には常連の足音だけが残る。「コロナの三年は、書店業の地形を確かに変えました」——三省堂書店の元社員で、いまは独立系古書店「文象舎」を営む店主は、棚を整える手を止めずに静かに言った。
消えた百二十軒、残った百八十軒
東京古書籍商業協同組合の発表によれば、神保町の加盟書店数は二〇一九年の約三百軒から、二〇二三年には約百八十軒に減少した。閉店の波は古書店だけでなく、新刊書店、専門書店にも広がった。閉店した店の多くは創業五十年を超える老舗だった。
しかし、減少率の数字だけでは見えないものがある。残った百八十軒のうち、約三十軒は二〇二〇年以降に新規開業した若い書店だ。
「閉まる」と「開ける」が同時に起きた街
「神保町に新しく店を開く人が増えていることは、古書業界の中ではあまり話題にならない」——古書組合の理事を務める書店主はそう話す。「みんな、減ったほうの数字に注目してしまう」。新規開業の多くは、特定ジャンルに特化した小規模店だ。建築書、占星術、料理書、女性史。一坪から五坪程度の小さな空間で、店主の関心がそのまま品揃えになる。
家賃と単価——二つの圧力
閉店を決めた書店主たちが共通して挙げるのは、家賃と書籍単価の関係だ。神保町の靖国通り沿いの店舗家賃は、コロナ前から二〇二三年にかけておよそ一・三倍に上昇した。一方、古書の平均販売単価は古書組合の統計でほぼ横ばいである。「一冊三千円の本を月に三百冊売っても、家賃と人件費で消える」と、二〇二二年に閉店した老舗の元店主は語る。
三つの戦略
- 店舗縮小と専門特化——百坪の店舗を二十坪に縮小し、扱うジャンルを絞った書店が複数。家賃負担を下げつつ、専門性で固定客を確保する。
- オンライン併用——「日本の古本屋」や独自ECで全国に販売。実店舗は陳列の場として機能させる。月間ECが店頭売上を超える店も。
- イベント空間化——書店主や著者によるトーク、サイン会、読書会を月数回開催。書籍売上以外の収益源として確立。
客層の世代交代
残った書店の店主たちが口を揃えて指摘するのは、客層の変化だ。神保町を歩く六十代以上の常連は確実に減り、二十代から三十代の新規来訪者が増えている。SNSで個別の書店が話題になり、「あの店に行きたい」という目的来訪が増えた。
「街」としての耐久性
個別の店の浮き沈みとは別に、神保町という街全体の耐久性を支えているのは、約三百のうち百八十が同じ通り沿いに残っているという密度そのものだ。「一軒だけでは目的地にならない」と、文象舎の店主は言う。「歩いて回れる範囲に百以上の店があるからこそ、人が来る」。
| 年 | 加盟書店数 | 新規開業 | 閉店 |
|---|---|---|---|
| 2019 | 約300 | 3 | 5 |
| 2020 | 約260 | 4 | 40 |
| 2021 | 約220 | 8 | 30 |
| 2022 | 約200 | 12 | 14 |
| 2023 | 約180 | 11 | 9 |
本屋が残るという条件
パンデミック後の神保町は、書店の数が減っただけの街ではない。残った店と新しく開いた店のあいだに、扱う本の傾向、客との関係、空間の使い方の違いが現れ、街の地形そのものが書き直された。書店という業種が「残る」という言葉のなかに、いくつかの異なる現実が同時に進行している。
家賃の上昇圧力は今後も続くだろう。しかし、神保町を歩く人にとって、書店の数だけが街の価値を決めるわけではない。一冊の本に出会うために何分歩けるか——その距離を縮めるための営みが、いまも百八十の店の扉の向こうで続いている。
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