島根県の山あいの町、人口三千二百人。中国山地の谷を縫うように家が散在し、最寄りのコンビニまで車で十五分。この町でシングルマザーとして暮らす綾子さん(四十代、仮名)は、午前六時前から一日が始まる。子ども二人を学校に送り出し、車で四十分かけて松江市の介護施設へ向かう。「フルタイムの仕事は市内にしかないんです」。
制度はある、しかし届かない
厚生労働省「ひとり親家庭等調査」によれば、母子世帯の就業率は八割を超え、平均年間就労収入は約二百四十万円。一方、地方に住むシングルマザーの実情は数字の平均からはずれて見える。仕事はあるが通勤に往復一時間半、保育施設は一つだけで定員に空きがない、児童扶養手当の手続き窓口は隣接市まで出向く必要がある——綾子さんの暮らしは、この三つの「ある」と「ない」のあいだで成り立っている。
三人の朝
取材した三人のシングルマザーの一日のスケジュールを並べると、共通する構造が浮かび上がる。早朝から子どもの世話、長時間の通勤、夕方の学童迎え、夜の家事。睡眠時間は平均五時間半。「土日に体調を崩すと、月曜日の出勤が一番きつい」と、別の母親は話した。
過疎地の「特例」が生む隙間
過疎指定地域では、保育料補助、住宅手当、就学援助など、複数の支援制度が重ねて適用される。しかし三人の母親が共通して語ったのは、その制度を活用するための「申請のハードル」だった。役所窓口の開庁時間は平日昼間のみ。郵送申請も可能だが、添付書類の不備で差し戻されると、また平日に休みを取らなければならない。
町内コミュニティの代替機能
制度の隙間を埋めているのは、しばしば町内の人間関係だ。綾子さんの場合、近所の高齢の女性が学童の迎えを週に二回担当している。「お礼に野菜を持っていったり、修繕を手伝ったり。給料は払っていないんです」。こうした非貨幣的な互助が、制度の不足分を埋めている。しかし、頼れる隣人が減る集落では、この互助も成立しにくい。
子どもにとっての地方
「子どもにとって、ここで育つことが本当にいいのか、毎日考えます」と、別の母親は話した。豊かな自然、顔見知りの大人、少人数の学級。一方で、進学の選択肢の狭さ、医療機関へのアクセス、文化的経験の幅。地方で子どもを育てるという選択は、メリットとデメリットの天秤ではなく、もっと複雑な選択の連なりだ。
三つの選択
- 通勤距離を選ぶ——子どもの近くに住み、長距離通勤を受け入れる。
- 市部への移住——通勤と医療を優先し、家賃と保育料の上昇を受け入れる。
- 分離の生活——子どもを実家に預け、平日は職場近くで一人暮らし。
三人のうち綾子さんは選択肢一を、もう一人は二を、最後の一人は三を選んでいた。それぞれが「いまは一番いい選択」と話したが、誰一人「これでよかった」とは言わなかった。
制度の言葉、生活の時間
| 支援制度 | 金額の目安 | 申請のハードル |
|---|---|---|
| 児童扶養手当 | 月 約4.5万円〜 | 毎年8月の現況届 |
| 就学援助 | 年 約8〜15万円 | 学校経由・年1回 |
| 住宅手当 (自治体) | 月 約1〜2万円 | 自治体差大 |
| 医療費助成 | 窓口無料 | 自治体差大 |
地方で母として生きること
「シングルマザー」という言葉のなかに、都市と地方では異なる現実が同居している。制度が存在するという事実は、必ずしもその制度が届くという事実ではない。届くために必要なのは、申請の時間、移動の時間、待つ時間——つまり、彼女たちが最も持っていない「時間」そのものだ。地方の福祉が抱える静かな空白は、この時間の問題に集約される。
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